萩と山陽道のたび 2
13.5.2〜5.4

海上自衛隊呉史料館を出て時間もあるので、広島の原爆資料館にも行こう、と言うことになり

広島へと走る。 広島・呉自動車道で北へ海岸伝いに走り30分程で到着する。 広島の空や

風は68年前の出来事を、何も無かったかの様に迎えてくれた。


広島平和記念資料館

まず、東館より入る。 館内には今日も大勢の人達が訪れていた。 特に外国人の訪問者が多く、

嬉しく感じた。 しかし、呉の大和館の空気とは、何処か違う。 訪問者の動きが鈍く、何か心の中に

重いものを抱え、展示品を眺めていると言う光景であった。 展示は原爆投下までの広島市の歴史や

なぜ原爆が投下されたのか、その背景の展示があり、廃墟の広島と市民の復活、そして平和への

歩みが展示されている。 本館では広島原爆の人的・物的被害の展示が行われている。 原爆投下

直後の壊滅した広島市街地の縮小模型、全身を焼け爛れさせながら火の中を逃げまどう被害者の

等身大ジオラマ、被爆死した三人の学徒が身に着けていた制服の残骸を組み合わせ一体の人形に

仕立てたもの、黒焦げの弁当箱など被爆死した学徒たちの遺品があった。


平和記念公園と原爆ドーム



平和祈念資料館・本館








原爆投下の跡



ケロイドの被爆者




爆弾被弾直後、辺りは粉塵で夜の様



同、足は素足で着ている布が燃えケロイドの肌が見える。




焼きただれた品々

      何故原爆を開発したのか? 第2次大戦が始まり、勝つため原爆製造し実験に成功したから。     

  何故日本に投下したか?  日本本土上陸、ソ連の日本への参戦要請、天皇制存続の保証

                    と言う選択技があったが、戦後、ソ連の影響力と莫大な原爆開発
の国内向けの正当化。     

何故広島に投下したのか?  原爆の効果を測定する為、当初より広島、小倉、新潟、長崎が
                 指定され、唯一連合国の捕虜収容所がないと思っていた。


世界は未だに核兵器を持ち続け、軍縮への歩みも進めることができない。 日本は被爆国でありながら

原発事故の後始末も出来ないで、他国に売り込みに政府が乗り出すと言う。 棒弱無人なふるまい。


そんなことを思いながら萩へと出発する。 国道2号線で廿日市ICより山陽自動車道に入り、大竹市を

通って山口県に入る、岩国から徳山を通って、防府東ICで降りる。 これより262号線にて瀬戸内より

日本海の萩まで列島横断である。 中国山岳地帯はアップダウンを繰り返し萩市街に入る。 道路が

 整備され広くなっているのに驚いた。 勿論以前来たのは43年も前のことで、萩も町興しに力を入れて

すっかり良くなっている。 ホテルは東萩の笠山の麓にある萩観光ホテルで約3時間で到着した。


萩 市


萩観光ホテル

和服姿の仲居さんが部屋へ案内をしてくれた。 仲居さんの話によると、このホテルは創業

40年になるそうで、3月にリニュアールしたばかりで部屋も綺麗になっていた。崖の上に立ち

萩の海の眺めが素晴らしい部屋である。


右の眺め



左の眺め

夕食には時間があり、ホテルの下に、以前来たことのある明神池に行くことにする。 池は静まりかえり

昔と同じで、何故か心がほっとした。 この池は笠山の大昔の噴火で出来た池で溶岩の間から海水が

 流れ込み潮の干満があり底を見ると大きな石鯛が縞模様を見せる。 細かい魚が群をなしよって来る。

大きなエイがのっそりと底をはう。 天然の水族館の様で、他にも多くの魚がいるそうで、天然記念物

に指定されている。 明神は二代藩主毛利綱広が厳島明神を祀ったそうで、神秘的な池で空には

トンビが舞っていた。


明神池

明神池の後は笠山の頂上に登る。 頂上には2組の先着者がいた。 こちらの夕日が素晴らしいと

 言うので・・ 確かである。 日本海に今日一日を勤めた陽が静かに沈んで行く。 隣の親子が子供に 

うつくしいね〜 ・・・・   確かに、この辺りは昔と同じ風景が残っている様だ、そんな気がした。


笠山からの夕日

ホテルに戻り一風呂浴びて食事となる。 飲み物はと聞かれ、萩の地酒・宝船を注文する。

料理はやはり萩は魚、フグである。 ふぐ刺しとふぐチリ、他に海老、鯛、マグロなど、まず

前菜と言うところだが、ポン酢に紅葉おろしを混ぜ、ふぐ刺しを、まず食べる。 久しぶりの

フグと萩の地酒で、やっぱり良い肴には酒がうまい。 刺身の醤油がまた魚にあう。 ぼつり

ぼつりと、萩の夕を楽しむ。 茶碗蒸しが出て、何かのあんかけが出て、会席料理に最後

は牛のミートローフが出てきたのには驚いた。 サービスなのかもね〜

翌朝は、萩・椿東地区の松蔭神社に行く。 ホテルからは近く萩反射炉を過ぎ右折して行くと

案内板があり、朝早く、人も少なく直ぐに着いた。 


松蔭神社

まず境内にある松下村塾を見る。 吉田松蔭27才の時、実家の小屋を改造し松下村塾を

開き、僅か1年間であったが、明治維新に活躍する多くの青年を育てて行った塾である。


松下村塾、松蔭の掛け軸、 右・松蔭像

松下村塾の先には吉田松陰旧宅がある。


松蔭幽閉の旧宅

松蔭は伊豆の下田で外国船に乗りこんだが、海外渡航に失敗し、獄に捕らえられて

その後、萩に移されて許されて実家の3畳半に幽閉された。 ここから松蔭の講義が

始まり松下村塾につながって行ったが、安政の大獄で刑死して行った。


松蔭神社

松蔭神社から少し南に行くと、伊藤博文の旧宅がある。 萱葺きであるが結構広い家で

屋敷には本人の銅像が建っている。 この家は1854年から父十蔵と共に住んでいて、

こちらから吉田松陰門下に入り教育を受け、志士として活躍した後、明治元年には兵庫県

知事となり、こちらを本拠にしていたが、明治憲法制定の任に当たって東京となり、その後

功なり内閣総理まで上りつめた。


伊藤博文の旧宅



同、銅像

旧宅の隣には東京在住時の品川区に建てたもので、車寄せを持つ玄関を持った

別邸で、こちらに移築し、現在は玄関、大広間、離れ座敷の3棟がある。 大広間の鏡

天井や離れ座敷の節天井、天皇から下賜された灯篭などがあり意匠に優れている。

旧宅と併せて市の史跡に指定されている。


車寄せ玄関




玄関広間

伊藤邸の東には玉木文之進旧宅がある。 彼は吉田松陰の叔父に当たり、杉家から養子にでて

玉木家を継ぎ、学識に優れていた為、松蔭の教育にも大きく影響を与え、付近の児童を集めて教え

松下村塾と名づけた。 この名を松蔭は継承して、あの名声の松下村塾をつくり、この旧宅が源と

なっている。


玉木文之進旧宅 松下村塾発祥の地

玉木文之進旧宅の更に東には東光寺がある。 三門を潜ると禅宗の寺らしく真直ぐの参道が伸び

両側に松ノ木が植えられた立派な寺院である。 黄檗宗で本尊は釈迦如来である。 明風で1691年、

3代藩主毛利吉就が万福寺をモデルに建立され、毛利家の菩提寺となり、奇数代の藩主の墓がある。

偶数代の藩主の墓は南萩の大照院に祀られている。


三門



大雄宝殿 国重要文化財

大雄宝殿の裏手には毛利氏の廟所があり、毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の

藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基がある。 また京都の禁門の変により亡くなった家老や

家臣たちの墓も廟所の入り口に立てられている。


毛利家廟所



禁門の変で亡くなった藩士たちの墓

以上萩・椿東地区は市街ではなく、静かな佇まいの所である。 この後は萩の市街地に入る。

明倫小学校の東の市営駐車場に車を留め、まず江戸屋横町へ行く。 こちらには蘭学者で

毛利家藩医になった青木周粥の旧宅がある。


江戸屋横町

青木周弼は高杉晋作が天然痘にかかり治療して一命をとりとめた。 明治に至り藩留学生として

ヨーロッパにわたり政治・経済学を学び、木戸孝允の推薦により外交官として進んだ。



青木周弼旧宅地

青木周弼旧宅の通りには木戸孝允の旧宅もある。 彼は萩藩医和田昌景の長男として生まれ、後に桂家の養子となり

桂小五郎を名のり松蔭j塾で学び、江戸に留学し頭角を上げて、萩藩に登用され池田屋騒動の後、坂本竜馬の仲介で

薩長同盟を結び、明治維新の立役者となった。


木戸孝允旧宅

木戸宅の後、江戸屋横町を北に出て、左手に白壁と連子持った豪商菊屋家がある。 菊屋は萩藩の御用達

の商家で幕府の本陣にもなっていて、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定され主屋

が古く全国的にみても最古に属する大型の町家である。 また500点余る美術品、民具、古書籍等を保持し

常時、展示されていて往時の御用商人の暮らしぶりが窺われる。


豪商菊屋家住宅

菊屋の筋向かいには、旧久保田家住宅がある。旧御成道(参勤交代の大名行列道)沿いに位置し、

幕末から明治時代前期にかけて建築された町家で、久保田家は近江から萩に来て呉服商を開き、

2代目から酒造業に転じたといわれ、以来明治30年代まで造り酒屋であった。 明治時代は、来萩した

名士の宿所としても利用された。 今は国指定史跡萩城城下町を構成する極めて重要な建物である。

中には五月節句の武者人形が飾られていた。


旧久保田家住宅

旧久保田家の後、御成通りを左に曲がり、菊屋横町に入って行くと、左手に田中儀一生誕地

がある。 彼は1863年藩主の駕籠もち田中家の3男として生まれ、小学校の教師から陸大に

進学し、陸軍大臣となり大正14年には政友会総裁となり、昭和2年に総理大臣となり、萩城の

傍に面した所に大邸宅を残している。


菊屋横町



菊屋横町



田中儀一生誕地

菊屋横町を更に進むと、高杉晋作、旧宅がある。 高杉晋作は、萩藩大組士高杉小忠太の長男として

1839年に生まれ、松下村塾で学び松陰からは有識の士として嘱望された。 松陰、死後、東北修行の

旅で佐久間象山らと出逢い成長して、1863年5月、下関海峡で四国連合艦隊と交戦し、藩兵力の弱さ

を知り、危機打開のため翌6月に奇兵隊を結成した。 その後の倒幕戦争においても諸隊の中核として

明治維新に大きな歴史的役割を果たした。 伊藤博文は「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と

高杉のことを詠んでいる。  菊屋横町通りの左手には高杉晋作銅像も立っている。


高杉晋作誕生地




高杉晋作銅像




菊屋横町通り

高杉晋作の銅像を見て、 菊屋横町通りを右折して萩城へ向うと、春日神社の先に旧児玉家長屋がある。

萩城三の丸の平安古総門に隣接していた児玉家は、萩藩寄組に属し、2243石余の大身武士であった。 

この長屋は屋敷の西側道路に沿って建てられたものと言われ、桁行32.67m、梁間4.59m、屋根は桟瓦 

葺きで、白壁に腰はなまこ壁で出格子を一ヶ所設けている。 国選定重要伝統的建造物保存地区内に

あり、よく旧態を保っている。


旧児玉家長屋

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